昭和48年6月3日 特別奉修委員
                             佐田恵介



ここでは、えー、信心は、結局ありがたくならせて頂く稽古だと、まあ、極言して頂きます から、ありがたいという答えを、まー、お互い、焦点に、、えー、置きますと、自分の信心の度合いがわかるわけです。どれだけありがたいか。その事、その問題に、どれだけ御礼を申しておるかという、そこで自分の信心がはっきりわかるわけですね。ほんというたらみんなありがたい、んと なんです。例えば今日井上さんが、あの、御夢ん中にお知らせを頂いとられるのに、この頃、んー、お兄弟がある、ある問題でちょっとこう、不仲になってから、あのー、おかあさんのおられる久留米のほうに 寄り付かれん。お母さんによびさとに?、お母さんば呼び出してから、はなかさる?ち言ったような、ま、いうなら 困った 状態にある訳なんです。ところが、その お姉さん が、あのー、井上さんに、いりこの、ね、だしじゃこ。あれをこうやって、下されよるとこ頂いた。ですから、も、そのことー のために、姉さんもそのために信心が出来よる(、?)なら、あの、井上さんもそれによって信心の 事になったら、その事が大体お礼を申し上げなきゃならん事です。もう、この頃からある問題で、涙が出るほど、その、情けなかったていう ておられましたけど。情けない事じゃない。もうお礼を申し上げんならん事なんです。ですから、その問題問題に、どれだけ、あたくし共がありがたいと御礼を申し上げとるかという事なんですけれどもね。その、んー、日の内に、ま、色々御礼を申し上げなければならないが沢山あるが、そのうちどれだけ、お礼を申し上げるいちんち(一日)であっただろうかということをね、自分の信心の、はは、程度。なるほど、これじゃまだおかげいただけんと思うてね、とにかく、いちんち(一日)を、まあ、白と黒との丸をつけて、こう、おー、そのー、良い事をした時悪い事をした時といったような事をする人があるというがね。もー、とにかく ありがたいと思えた事、思えなかった事を一つうね?こう、塗りつぶしんでも一つあらわして、えー、一つほんとに、いちんち(一日)が ありがたい。というしろまーる(白丸)で一杯になるようなね、おかげを頂きたい。え、今、熊谷(くまがえ)さんが、今度、御本部参拝の、あの、九十年の記念祭の、おー、御礼参拝の事を、与田におられるねいさん(姉さん)にもこれをいっちょお、あの、お導きをしようというので、昨日、おいでられようと思いよったら、ここへ電話がかかってきた。??、まるっきり神様がこう、差し向けて下さるようなね。ほで?、??出られて、もー、ほんーとに、それこそ、も、もう、それこそ住まいといえ(家?)、もー、徳、もー、大変な 物持ちのお家であんなさいますから、何一つ不自由もなからなければ、ふれい(不平)?不足の言える所はないほどしに おかげを受けてあるけえどもね、??喜びがない。あんただん喜びな。これだけのおかげを頂いて喜ばにゃて、いつも行くたんべんにいうとった。ね。ところが、とてもとてもほんに信心がのうせんな、喜べるはずはないと思うたとこういわれっです。なら、信心があっても今申しますように、喜ばんならん所に喜んでいない 位(ぐらい)ですからね。そこでまあ、あたくしたちは思うんですけれどもね。その喜ばせて頂く為に、例えば、喜びの反対の、不平不足はいうまい、というしぎょうがやっぱいるごたぁうですね。不平不足がおこるて??時にね、それを言うまい思うまいというような、あの精進をさせて頂くと、答えとして、ははー、ほんとにありがたかったという事が段々ね、でけてくるように なるのじゃないかと。 えー、あたくしーあの、??御祈念の時に、拝詞の、生神金光大臣様天地金乃神様 というあれなんですよね。あれが最近の合楽の願いにぴったりきておるようですね。なんか今までは 唱え事 といったような感じでしたね。大祓(おおばらい)なら大祓(おおばらい)をあげる。ただ、ようなふうで、ただ調子であげておったという感じでしたけども。もう、一言一言がです、今の合楽の願いにぴったりきておるように思うんです、ね。例えばもう、うー、世界総氏子身の上安全にいたしましてもね。えー、世界真の平和にいたしましてもね。全教一新全教一家にいたしましても。も、その事を、おー、わざわざその事だけを願わして頂こうといったよな、最近、信心になってきましたから、あの唱え言葉が、そのまま、唱え言葉でなくて、あたくし共の心からの 願いであり、祈りであるという。なさん、どんなふでしょうか。そういう風に感じておあげになっとるでしょうか。も、そりをやっぱ一言一言 感じながら、自分の実感としてね、あの、おー、拝詞は奏上さしてもらんならんと思いますね。えー、これも今、原さんがお届けされましたように。用件で鹿児島の 弟さんが見えとん。もー、二十何年前に、合楽に御神縁を、原さんのおみちび ?ただかれたのが初めて。それからあたくしが、鹿児島においでられるならばというて、行徳先生ん所に、あの、地図を書いてやって、そいで、お参りさたのが初めてで、もー、今は、あ、あー、鹿児島教会のいっ、ぴかいちの御信者さんでね。いつかあの、熊本の、あのー、ぜ、九州全体の信徒会の時にゃ、代表で御話をされた方です。というくらいにもう、鹿児島の代表信者になるごとある。ところが最近は、つくづくといろんな信心に行き詰まるとこう。ところが、この記念祭に、あの、ここの和賀心時代という本を、原さんから送って頂いて、もうなん、何回読み返したかわからない。今日も、汽車ん中であれを読み返し読み返しさして頂いたが、合楽の信心のすばらしさというのは、もう、いつも合楽の先生は、あの、神様が中心でおありになるこ(と?)。あたくしとあたりの教会は、なるほど御比礼が、たっとるようであるけれども、教会自体が、信者さんの顔色をうかがってからの。例えば、えー、御祈念なら御祈念の時間が、冬は、あんまり早うちゃいかんけん六時にすると。夏は、みんなが便利がよかごと五時にする とか。叉は、あー、日曜はみな便利がよいけん、日曜にいろんな会合は、し、するとかと。も、とにかく、御信者さん方を中心での、生き方がね、いかに本当ではないかということを、いよいよ感ずる。どこまでもやはり、神様を中心にした行き方、いやる合楽の 偉大な信心に、どーでもあやからしてもろうて偉大にならなきゃいけない。大きならにゃいけないな、と思うとるという話しがあったそうです。だから、お互いが、そういう おかげを頂いとりますけれども、やはりあの、灯台足元くらしというか、あー、信心がマンネリというですかね、もう、当たり前の ことになってしまって きとるような感じが、今朝方の御理解いただくと ありゃあせんだろうかと。そういう、例えば、あのー、あ、一番大きなありがたさっというかね、合楽に御神縁を頂いとるということにたいして、一番ありがたいという事をです、ほんとに生き生きとして実感させるのは、不平不足のない、有り難いという心だと思いますよ、ね。そして、そりゃー、いやー、みんな言います。もう合楽に御神縁を頂いておったという事が、ほんとありがたいというからね。な、その、ありがたいという心で、はたして合楽教会の大発展をどれだけ祈っとるかという事。ね、もう、ここん所にみな最近は、ね、合楽と共に助かっていく。合楽と共に借金払いが出来るおかげ頂いたらえい。合楽と共にきんこ?になったらよいのです。ね、それを、なら、あたくし(ん?)、糖尿病とか、腎臓病の事、ね。な、ここで、沢山の借金がある事。ね、それでも、ぜんーぜんそれを。不健康の事も、借金のある事も、問題にしていない。はー、いっちょはよ借金払いを??が出来たなら頭がかるなるばってん。どうぞ借金払いが出来ますように。どうぞ健康になりますようにという ばかりの願いがね、あの、五つの願いになってきてからの 健康であり、叉は、あー、家繁盛、子孫繁盛であり、真実の御用であり、神願成就であり、叉は、あー、家庭、不和のなきがもとであるという願いというものがね。ただ、どうぞ健康になりますようにというだけではなくて、そういう、例えばなら、教会を中心にしての働きがでける事の為に、五つの願いが、あー、叙述(じょじゅつ)にね、あの、おー、おかげを、あらわら、現れてくる、現されてくる 信心、という事になるのじゃないですかね。??合楽教会の事を祈るという事、願うという事。これは、もー、神様の、いわる、神願成就に起用させてもらう事ですから。ね、合楽がおかげ頂いた時には、皆さんもおかげいただいとるというおかげ頂かなければ、ほんとの意味においての、金光教 的信心でもおかげでもない。あいよかけよで立ち行くという事、ね。ですから、あのー、教会とともに助かっていく。そん為にはそげな生き生きとした 信心。生き生きとしたおかげ。それを生き生きとして、世のお役に立つ。神様にお喜び頂ける事にお役に立たせてもらうという、信心の信条をね、一つはっきり定めなければいけない、と思うです、どうぞ。